北京BEJ48チームJ「しーしー(單習文)」は2年飛び級で大学合格の秀才なのにラブライブのコス団からBEJ48

北京BEJ48一期生(上海SNH48七期生と同期相当)の中に一人、すごいメンバーを発見。

北京BEJ48に新しく結成されたばかりのチームJ、しーしー(單習文)。安徽省出身。

彼女の中国ツイッター(新浪微博)公式アカウント2016/10/05 13:07のツイートの自己紹介長文を読むと、びっくりします。

以下、日本語試訳。


私の名前は「習文(シーウェン)」、年下のいとこの名前は「習武(シーウー)」、年上のいとこの名前は「習斌(シービン)」。これってホントあはは。

小さい時自分の名前は好きじゃなかった。ストレートすぎるから。まるで生まれた最大の目的はしっかり勉強することみたい。そのとき密かに思ってたのは「羽」「妍」「莎」とか女の子っぽくて響きのいい名前が好きだってこと。

実は名前ってやっぱり不思議なもので、16歳までの私はふつうの大人しい「あの娘を見てご覧なさい」的な女の子で、家と、学校と、本屋の3か所を行き来するだけ。いま思い返すと16歳までの私の人生は本当の意味で……しっかり勉強すること以外は何もしてなかった……

名前はやっぱり私の……テストの成績にも……影響力があった。

16歳で私は大学入試に参加して、安徽省滁州地区の文系で11位。それから北京に来ることを選んだ。16歳は実は少し年齢が小さいし、大学入試で希望学科を記入するとき、やけくそで英作文を書き直して15点引かれて英語学科を選んだ。(訳注:この文の意味がよく分からない)

事実が証明してくれた……やっぱり好きなことを選ぶのがいちばん重要だよ。友だちと大学というこの小さな社会に馴染み始めたあと私はだんだんと……ヲタク女子に変わっていった。

オタク女子の生活って……講義に出る以外は宿舎の寝室にずっといて、友だちも不思議なほど少なくて……「私は誰?ここはどこ?」っていうふうに途方にくれた頃もあった。

私の大学生活は無味乾燥なもので、年齢が小さくて、学業では秀才に取り囲まれた中では普通の人としか言えなくて、自己否定して、なりふり構わず、チャンスをたくさん逃した。

いちばんそれがよく分かる例は……大学に入っても、お父さんやいとこのお兄さん以外に男性と手をつないだこともなかった……今みたいに中学生でも恋をする時代に……私ってぜったい希少動物だよね……

でもチャンスが巡ってきてある日、私はコミケに参加した。

私の二次元に対する気持ちは実は濃くもあり薄くもあり、長い長い「しっかり勉強」の日々も、アニメを見たり、こっそりコスプレ掲示板を見たり、同人サークルの掲示板を見たり。

誇張なしに言って、10年来私が唯一リラックスして慰められることだった。でも一度も強烈だったことはなくて、生活にまで入り込んでくることもなかった。グッズも買わないし、サークルのことも分からなかった。私は二次元少女と言えないかもしれない。

そしてそのときのコミケで、私はたまたま小さな舞台で輝いている女の子たちを目にした。

彼女が私に聞いた。ねぇ、「安利」って聞いたことある?(訳注:この「安利」の意味は不明。安利美特(アニメイト)のことか、単に「宣伝する」「売り込む」の意味か)

彼女たちは別名「キンキラキン」の衣装を着てAKB48の『ヘビーローテーション』を踊っていた。そのとき私は本当にぼーっとしてしまった。舞台上の彼女たちが本当に輝いてて、ほんとうに超かわいかった!

それから私はお手洗いに行って、ふと顔をあげるたとき、横でメイクを落としている隊長と目が合ったの。それから彼女が言ったのは「お嬢ちゃん、ラブライブって知ってる?人が足りないから来ない?」

私はもちろんラブライブは知ってたから、その後私も小さな舞台でダンスする女の子の一人になった。

実は自分ですごく楽しくて、ときどきなんの報酬もなかったり、基本的に自腹でお金を出して、最初私たちは解散しても仕方ない、っていう時もあった。

そのころラブライブのダンスチームはたくさんあって、それぞれ目標を持っていたけれど、私たちの目標は、私たちだけで、私たちの公演をやって、それからすぐに解散すること、それしかなかった。

でもこの小さな目標はぜんぜん簡単じゃなかった。万単位の会場費や、見に来てくれる応援団のファンのみんなは?

この目標に向けて一年間歩んだ。

その一年間、私は週末を全部レッスンにあてて、私の生活は講義に出て、寝室にずっといて、レッスンをする、というふうに変わった。

実はぜんぜん基礎がなくて唯一取り柄といえば笑顔。でも楽しかった。高坂穂乃果になったり、矢澤にこになったり、南ことりになったり。

舞台を降りると普通だけど、舞台に上がった瞬間、応援の声がどんどん大きくなるのが聞けるし、そばにいる仲間たちの笑顔が見られる。それで十分だった。

ファンの人たちに見に来てもらうために、私たちはコンテストに参加したり、MVを制作したり、私もコスプレ写真の撮影を手伝ったり、撮影スタジオのモデルになったり、漢服店のモデルをやったり、大企業の営業を受けたりした。あまり好きじゃないときもあったけど。

チケットの値段を安くするためと、衣装を買うために、みんな絶えず営業の仕事を受けて、レッスン以外は営業の仕事という生活だった。

それから私は学業の上で最大の困難に出会った。貸し切りでレッスンをする半年近くの間、大半は北京にいなくて、すごく大事な南ことりのポジションを一か月引き伸ばしてしまった後、私はやめることを選んだ。

でもそれは私が見た中で完全にゼロから作り上げた、いちばんすごい貸し切りのステージだった。私は楽屋から海のようなスティックライトと、とどろくようなコールを見て、一人でしくしく泣いてた。

最後までいっしょにやり切れなかった後悔と自責。この一年、私にいちばん貴重な友情をくれた仲間たちの期待にこたえられなかったこと。

私は大きな輝きの一つひとつが簡単じゃないことを知った。ソロ曲のときメンバーの目に涙があふれるのが分かった。私は泣き虫だから、私ならきっとそのまま泣き出したと思う。

その後BEJ48が北京に出来て、初演のチケットが取れなかった後、やっとチケットを買うことができた。私はいちばん後ろの列で公演を最後まで見た。

その感覚はどう言えばいいんだろう。まるで私が初めて『ヘビーローテーション』を見たあの午後のような感じ。あの心残りだった貸し切り公演のときのような気持ち。

実は先輩たちのダンスは私たちが最初趣味でやってたようなダンスよりはるかに上手いんだけど、でもあの何とも言えない感動は同じだった。

私はコールの声に囲まれながらBEJ48に応募する決心をした。

最後は?私が見たあの『シアターの女神』公演のように「ついに私はここに立った」


本当にびっくりする。

翌日、2016/10/05の彼女のツイートによれば、彼女の専攻は英語。第二学位として二年間外交学を学んだが、BEJ48入団後は辞退、第一専攻の英語だけにしたらしい。

日本よりはるかに強烈な学歴社会の中国で、2年飛び級の16歳で大学に合格した秀才の彼女が、コミケの『ヘビーローテーション』で雷に打たれたように感動する。

そしてラブライブのコスプレ・チームに入って、毎日、学業、レッスン、アルバイトという生活をしてでも、貸し切りのライブを実現したいというくらい、「アイドル」というものに憧れている。

ふつうの中国人なら、どう考えてもそこまで頭が良ければ英語の勉強を続けて、海外留学するなりすれば、優良企業に入って豊かで安定した生活が送れると思うだろうに。

でもその選択肢と、「アイドルになる」という選択肢が、彼女の中で完全に同じ価値で並んでいることが、何よりもびっくりする。

中国っていつの間に、こんな国になったんでしょう(笑)。

しかもそういう彼女が、特に好きなアニメは『干物妹!うまるちゃん』で、あんなお兄ちゃんがほしいそうです。(筆者は見たことがないアニメだが、絵を見ればストーリーのゆるさはだいたい想像できる)

80年代の改革開放政策で資本主義化して、ようやく豊かな中産階級が出てきたばかりだと思っていた。

ところが、彼女のような秀才がアイドルにあこがれて北京BEJ48に入って、第二専攻していた外交学まで捨ててしまうという、すでに日本レベルまで成熟した(?)社会になっちゃってる。

いろんな意味で衝撃的な、北京BEJ48チームJ「しーしー(單習文)」の経歴でした。

ちなみに彼女のあだ名は漢字では「茜茜(シーシー)」。

筆者も現地ファンの中にも「茜茜(チェンチェン)」と読むんじゃないかと思った人がいたようだが、本人が「シーシー」だと言っているので、「しーしー」が正解。