上海SNH48チームHIIクマちゃん(李清揚)の心洗われる長文ツイート

上海SNH48三期生チームHIIくまちゃん(李清揚)が、最終的に王柏碩が退団する前のタイミングで、Instagramに下記のような長文を書き込んでいた。

子供のころお父さんと一緒にテレビを見ていたとき、その中の一つのキャラクターを指差してお父さんに質問した。この人良い人?それとも悪い人?お父さんはちょっと考えてから、良い人でも悪い人でもないと言った。

子供の頃の私はいぶかしく思って、それってどういう意味?って聞いた。お父さんは私にもう一度説明してくれた。具体的には覚えていないけれど、だいたいの意味はその人は簡単に悪い人、良い人と定義できないということだった。

そのとき私はいぶかしく思って、とても理解できなかった。一人の人が、良い人じゃなかったら悪い人ってことにならないの?何も説明するのに難しいことはないじゃない。お父さんは私にわざとあいまいなことを言って、長い間私を困らせたんだと思った。

それからだんだん大人になって、だんだんいろんなものを見るようになって、だんだんこの世界を理解していった。

自分の娘を強姦して強姦犯で捕まった「悪い人」を見た。その人は法律に触れて、人を殺した。お金持ちを強盗して貧しい人を助けた「良い人」を見た。その人は確かに他人にそれほど大きな損失を与えていないけれど、たくさんの人を助けたように見えた。「善行」をしながら「悪行」をする人もたくさん見た。

でもいつか自分に娘ができて、そういう人たちを指差して私に、お母さん、この人たちは良い人?悪い人?とたずねたら、私も答えられないだろうと思う。

私は自分の生活している世界が、黒でなければ白、というわけじゃないことに気づいた。その中間に灰色のグラデーションがある。私はもうああいう、良い人でなければ悪い人といった退屈なテレビドラマは見なくなった。

子供の頃のある年のクリスマスのように、お母さんが私に生きていないおもちゃのポケモンを買って、本物の生きてるポケモンじゃないせいで悲しんだ、あのときの私じゃなくなった。私はだんだん大きくなって、だんだん現実と虚構の違いがわかるようになったから。

私が好きだったあのピカチュウは、アニメの中に生きているあのピカチュウでしかない、ということが分かったから、現実の中にピカチュウを探さなくなった。まだ夢を持っていて、ピカチュウが世界のどこかにいるという幻想を持っているかもしれないけれど。

でも原作者が私の目の前で、夢を見るな、この世界にそもそもピカチュウなんていないんだ、と言ったとしても、私は悲しまない。たとえ世界にピカチュウがいても、私のものじゃないかもしれない。それにアニメの中みたいな姿じゃないかもしれないから。しかも世界にピカチュウがいたとしても、プラスチックのおもちゃのピカチュウでしかないから。

いちばん美しいピカチュウは、作者が創造したあのサトシといっしょにいるピカチュウだ。

しかも、現実には可愛い猫ちゃんがいて、私のそばでごろごろ鳴いてるし、私のベッドでおしっこやうんちをしたりする。それでも私は猫をとても愛してるし、猫は本当に存在するからこそ、私は飼っている。

実在しないモノや商品でも、それを好きになることで、ああいう美しい姿を見せてくれればそれでいい。私もアイドルが好き。アイドルのキレイなところが好き、アイドルの笑顔が好き、アイドルの歌が好き。いつも私を励ましてくれる。

私はそういうアイドルが賢い女の子が好きだと言ったのを信じて、努力してきた。でもそこから少し深く入り込んで理解しようとする必要はない。そういうものがアイドルの見せてくれるすべてだから。

それ以外の面はアイドルじゃない。非売品と言えるかもしれない。それ以外の面は暗いところに隠れていて、当事者でも理解できない形をしている。いちばん近くにいる人でさえはっきり見えない。

私たちも信じるか疑うか、好きか嫌いかを、どうして言うことができるだろう。人はみな単一じゃない。あなたが知りたくないものを常にもっている。ただそれに気づくか気づかないかの違いだけ。

誰が誰より善良かなんて言えない。自分がちょっと草が風に吹かれたからといって、その中で左右に揺さぶられないようにするため。世論に操られてバカにならないようにするため。通りすがりの人があっという間にファンになり、ファンからあっという間にアンチになる、ああいう盲目の人になりたくないから。

もし自分自身で理解できないなら、あっさり目を閉じてしまえばいい。見る必要もないし、見るべきでもないものを見なければ、惑わされることもない。

なぜ歌やダンスが優秀なアイドルがより多く報われるようにしたいと言うのか?それはそういう人たちこそいちばん健全で、いちばん善良で、いちばん価値があって、いちばん真実だから。

顔面偏差値や、話が面白いのもいい、目に見えるところはすべていい。でもキャラや、人柄、私生活といったものははっきり見えないもので、いい商品はならない。しかもそういうものじゃ、そもそも消費されるべきじゃない。

私たちはその人がウソを言ったからといって、その人の作品を否定すべきかな?むしろ彼の作品が良いからこそ、彼の言ってるウソは見えても見なければいいんじゃないかな?そういうものは、私たちがそもそも足を踏み入れるべきじゃないことかもしれない。

ウソが暴かれるのは、いつもそういう幻想を認める人がいるから。本当かウソか分からないものを信じておいて、それを無理やり現実の中に置いてみろという、そういう要求をすれば、人は本当のフリをするだけで疲れてしまう。そんなことしなくてもいい。

楽しみを手に入れて、頭をはっきりさせて自分自身を保つための、私の秘訣は、第一歩は虚構と現実をはっきりさせること。それから自分に真偽がはっきり見えると思い込まないこと。もっと大きな世界を見てみること。黒と白の他にもたくさんの色彩があるのを見てみること。

kumamaovo(訳注:李清揚のInstagramのユーザ名)が最近ネットでいろいろ起こっていることについて、少し思うことがあって書いてみたくなった。特定のことを指しているわけじゃないし、誰かとケンカしたいわけでもない。ただ単純に自分の思いを打ち明けただけ。おやすみなさい。

クマちゃんの根っこのところの純粋さと、その上にある現実主義のバランスがよく出ていて、ちょっと感動した。彼女のようなメンバーがいれば、上海SNH48チームHIIはこれからもやっていけそうな気がする。